京都検定の大問3、建築・庭園・美術においてよく出題される絵師やその絵師集団について。
平安時代の仏画から始まり、室町時代の城の障壁画、寺院の天井画、近代の西洋画など、幅広い分野の絵について出題されます。
特定の絵について出題されることもあれば、特に有名な狩野永徳らの狩野派といった画派や絵師についての出題もあるので、この分野は苦手だと感じる受験者も多いでしょう。
実は管理人、京都検定2級を取得しているのですが受験前はこの分野は全く知らず、大の苦手分野でもありました。
最終的には苦手を克服し、実際に受験したときに出題された問題も難なく解答できたのですが、今回は苦手を克服するために重点的に要点を押さえた画派や絵師についてまとめてみました。
土佐派
創始は平安時代後期の藤原基光とされていますが、文献上に初めて登場する土佐の性を名乗る人物は室町時代前期、宮廷絵師の土佐行広です。
武家社会に好まれた狩野派に対して土佐派は公家社会の絵師集団として活躍し、平安時代前期に成立した日本の伝統的な「大和絵」を継承した画派になります。
桃山時代には勢いに陰りをみせて大阪の境に移転、その後江戸時代に再び京都に戻り土佐光起が再び宮廷絵師となり復興しました。
しかし土佐派と同じく大和絵を継承する狩野派の存在により衰退していくこととなります。
土佐光信
1434年~1525年
宮廷絵師、幕府の御用絵師を務め、土佐派の地位を確立させました。
代表作は北野天神縁起絵巻、清水寺縁起絵巻
土佐光起
1617年~1691年
堺から京都に戻り土佐派の復興に尽力しました。
土佐派だけでなくライバルの狩野派も学び、それまで土佐派が描かなかった新しい画風により江戸時代の土佐派を確立させました。
狩野派
日本の美術史では最大規模かつ最長の画派。
中国の漢画に日本の大和絵を取り入れた画風で、室町時代に狩野正信を祖としその後の血脈関係者により幕府の絵画制作をほぼ独占していました。
江戸時代には幕府と同じく活動拠点を江戸に移し、江戸狩野と呼ばれ、京都に残って活動した狩野山楽らは京狩野と呼ばれるようになりました。
狩野正信
1434年~1530年
足利義政の御用絵師として活躍、狩野派の祖
狩野元信
1434年~1530年
正信の長男で、公家や有力な町衆といった新しい顧客層を開拓。
漢画の水墨画に大和絵を継承する土佐派の様式を取り入れ、和漢融合と言われていました。
代表作は大徳寺塔頭・大仙院の四季花鳥図、妙心寺塔頭・退蔵院の元信の庭は国の名勝に指定されています。
狩野永徳
1543年~1590年
狩野派4代目で、知名度・実力ともに狩野派でトップの存在。
安土城や大坂城、聚楽第といった巨大な城の襖絵を担当するも、城とともに焼失しています。
代表作は大徳寺塔頭・聚光院の方丈障壁画、花鳥図、琴棋書画図(いずれも国宝)
狩野山楽
1559年~1635年
狩野派の血筋ではなく、豊臣秀吉に才を認められて狩野永徳の門徒となりました。
江戸時代に狩野探幽らが江戸に拠点を移し江戸狩野として栄えますが、山楽は京都に残って活動したことから「京狩野」の初代として知られています。
代表作は大覚寺の牡丹図、紅白梅図
狩野山雪
1589年~1651年
京狩野の二代目。
狩野派の血筋ではなく、娘婿となり京狩野を継ぎました。
代表作は妙心寺塔頭・天球院の方丈襖絵
狩野探幽
1602年~1674年
狩野永徳の孫で、江戸幕府とともに拠点を江戸に移しました。
代表作は二条城二の丸御殿障壁画、妙心寺法堂の雲龍図
長谷川派
水墨画を中心に、金箔を用いた豪華絢爛な金碧障壁画まで幅広い作風により武家から町衆まで人気を博し、桃山時代の京都では狩野派と肩を並べる勢力となりました。
長谷川等伯
1539年~1610年
当時の狩野永徳の存在をも凌駕するほどの活躍。
躍動的な金碧障壁画、水墨画が多い。
智積院には、旧祥雲寺客殿障壁画、楓図、松に秋草図、松と立葵の図などの国宝の他、多数の作品が所蔵されています。
墓地は本法寺にあります。
長谷川久蔵
1568年~1593年
長谷川等伯の息子で、父に先んじて26歳で死去
智積院の桜図(国宝)は父等伯の楓図と対になっています。
円山派
琳派の画法に西洋画の画法を加味した新しい画風
狩野派は武家や公家に好まれたのに対して円山派は庶民に親しまれました。
円山応挙
1733年~1795年
写生を重視した親しみやすい画風で虎の絵を得意としていました。
代表作は雪松図屏風(国宝)、月鉾の屋根裏絵画、幽霊画。
足のない幽霊の絵を描き始めたのは応挙が初めてだと言われています。
長沢蘆雪
1754年~1799年
師の円山応挙とは対照的に大胆、独創的な作風で知られ「奇想の絵師」とも呼ばれています。
大胆な構図の花鳥、動物、人物画が有名ですが、依頼主によっては落ち着いた水墨画を描いたりと、依頼主によって画風を使い分けていたとされています。
四条派
江戸時代中期からの画派で呉春を祖とします。
呉春が与謝蕪村の文人画を基礎に円山応挙の画風と取り入れた独自の画法が発展しました。
呉春やその弟子たちが四条通に住んでいたことから四条派という名前がつきました。
呉春
1752年~1811年
呉春は円山応挙と親交が深く、円山応挙への弟子入りを希望しますが、応挙はそれまでの関係性から師弟関係を固辞したとされています。
幸野楳嶺
1844年~1895年
日本で最初の公立の美術学校である京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)の創立を建議、教師も務め、楳嶺四天王とも呼ばれる竹内栖鳳、女性で初めて文化勲章を受賞した上村松園らを育てました。
墓地は妙蓮寺にあります。
竹内栖鳳
1864年~1942年
第一回文化勲章を受賞。画風は四条派を基礎に狩野派、西洋の画法を取り入れた革新的な画風が特徴です。
天龍寺塔頭の弘源寺には竹内栖鳳とその弟子ら数十人の作品を所蔵しています。
代表作は「アレ夕立に」、「斑猫」、「絵になる最初」
法観寺がある東山区八坂上町に1300坪の広大な邸宅を所有していました。
上村松園
1875年~1949年
「美人画」と呼ばれる女性の作品を描き続け、女性では初めて文化勲章を受賞しました。
橋本関雪
1883年~1945年
水墨の動物画が特徴で、銀閣近くに白沙村荘という画室をかまえて池泉回遊式庭園を作庭しました。
哲学の道は桜の名所として知られていますが、ここの桜の一部は橋本関雪により寄進されました。
堂本印象
1891年~1975年
風景や人物、歴史、宗教など多岐にわたる題材の作品が多く、立命館大衣笠キャンパスの北側に堂本印象美術館があります。
堂本印象美術館の作品を見ると、制作年によって画風の印象がガラッと変遷していることがよくわかります。
東福寺本堂の蒼龍など各地の寺社に印象の作品も残っており、深草の大岩神社には印象がデザインした鳥居が寄進されています。
琳派
背景に金銀泊を用いた大胆できらびやかな画法が特徴
俵屋宗達と本阿弥光悦をルーツに、尾形兄弟により琳派として大成しました。
狩野派、円山派、四条派などの主要な流派は師弟関係により後世に引き継がれましたが、琳派は場所や身分など関与せずに独自に学び、引き継がれた特色があります。
俵屋宗達
1570年ごろ~1640年ごろ(生没年は不明)
書・絵画・陶芸などの芸術に秀でていた本阿弥光悦の誘いを受け、広島県の厳島神社の平家納経を修繕、その後光悦の書と宗達の絵の共同作品の評価が高まり、江戸幕府からも絵の依頼が来るようになります。
風神雷神図、蓮池水禽図、関屋澪標図屏風は国宝
墓地は左京区の頂妙寺にあり、「牛図」も所蔵しています。
本阿弥光悦
1558年~1637年
寛永の三筆の一人として名が挙がる書道家でもあり陶芸・絵画にも秀でていました。
鷹峯の土地を徳川幕府から与えられ、職人や芸術家たちが集められます。
この地は「光悦村」と呼ばれるようになり、光悦は現在の光悦寺に住んでいました。
本法寺は本阿弥家の菩提寺で、書院の三巴の庭は光悦の作庭です。
尾形光琳
1658年~1716年
俵屋宗達とは直接の師弟関係はありませんが、宗達の画法を継承し大成させました。
代表作は燕子花図屏風(国宝)、紅白梅図(国宝)
墓地は妙顕寺塔頭の泉妙院にあります。
妙顕寺にはかつて光琳が作庭した庭園がありましたが天明の大火で焼失、その後妙顕寺が所蔵する光琳の「寿老松竹梅図」を参考に作庭された庭園が現在の「光琳曲水の庭」になります
尾形乾山
尾形光琳の弟で絵師でもあり京焼陶芸家でもあります。
野々村仁清に陶芸を学び、尾形光琳の絵付けによる合作もあり、乾山焼を広めました。
岸派
岸派は江戸時代後期から明治時代の画派で四条派とのライバル関係でもありました。
岸駒
1756または1749年~1838年
円山応挙と同じく迫力ある虎の絵を得意としていました。
その中でも清水寺にある「八方にらみの虎」はどの角度から見ても目が合うことから清水寺の七不思議とされています。
その他
如拙
南北朝時代から室町時代中期
水墨画の創始者と言われ、妙心寺塔頭の退蔵院が所蔵する瓢鮎図は国宝です。
雪舟
1420年~1502年または1506年
室町時代の禅僧、水墨画家で水墨画の大成者です。
現存する作品のうち6点は国宝で、京都国立博物館所蔵の天橋立図には成相寺、智恩寺、籠神社が描かれています。
海北友松
1533年~1615年
武家出身の絵師で、父の戦死を機に東福寺で修行をしここで狩野派の絵を学んだとされています。
晩年に豊臣秀吉の命を受けて画業に集中するようになり、のちの宮本武蔵が海北友松の絵を手本にしていたと言われています。
代表作は建仁寺の雲龍図
伊藤若冲
1716年~1800年
錦市場の青物問屋「桝源」に生まれましたが家業には興味を持たず絵に没頭。
動物を事細かく観察し、その姿を細かく写生することで技術を磨き、特に鶏の絵を得意としていました。
一時期は狩野派に属していましたが、20代には中国からもたらされた宋元画に惹かれて独学で絵の道に没頭しました。
40代のときには相国寺に住み、晩年は後の墓地となる深草の石峰寺の前に住み、石羅漢像を作り上げました。
代表作は長刀鉾の見送「旭日鳳凰図」、動植綵絵(国宝)、金閣大書院の障壁画、海宝寺若冲筆投げの間の群鶏図など

